東先生のクォンタム・ファミリーズを思い出して

私は不可能と分かっていながらも3月11日に戻れたらという想像を止めることができません。


もし、私があそこにいたら何かが変わっていたかもしれません。私はその可能性をどうしても
あきらめることができないのです。


私が実家に帰省していたらとしたら、家でテレビを見ていたかもしれません。ちょうどそのとき
に大きな揺れを感じ、私はテレビをつける。見たことの無いマグニチュードの大きさと大津波警報
私はこれはまずいと直感する。津波がくる、絶対に来る。


僕は和室に居た祖母に叫ぶ「津波くるぞ」。祖母と姉は「通帳!通帳!」と叫び、急いで何かしらをリュックに詰め始める。あと30分くらいで津波がくるとテレビで言っている。私は「大丈夫だ。時間があるから!!」と自分自身と祖母に向かって叫ぶ。


母が職場から自転車で帰ってきた。母の職場が近くで本当に良かったと僕たちは安堵して準備を進める。
私たちは地区の避難場所である、4階建ての建物に逃げる準備をする。そこまでの距離は歩いても10分も掛からない。そこに逃げてしまえば大丈夫、ビルの高さは15Mはある。


僕たちは、荷物を準備して家を出ようとする。けれど僕はふと思う。もしかしたら川が増水して車が流さちまうんじゃねぇか。僕は母と祖母に「まだ、10分以上あるから車で山に逃げっぺ、車が濡れっかもしんねぇし」と僕は皆に提案する。


ここから、町民体育館のある山まで車なら10分もかからない。日産のウィングロードは父が買ってから4〜5年経っただろうか、家族全員が乗れる大きさだ。


母が「ここまで波来るはずねーから、大丈夫だ」と言う。僕は「いや。もしもってこともあるから車で
一番高いところまで逃げるべ」と言う。


私はこの想像を3月11日からずっと繰り返している。たぶんこれからの人生をずっと考え続けるんだろうと思う。私があのときあの場所にいたとしても、20Mの津波がきて4Fのビルに逃げても死ぬとは絶対に予想できなかったろう。


私があのときに考えたとすれば、車が濡れるかもしれない、その危惧からの提案だけだったろうと思う。
その提案ができていれば家族全員が死なずにすんだと思うと私はその考えを止めることができない。


「可能だっかかもしれないもうひとつの人生。ひとの生は、なしとげられる《かもしれなかった》ことに支えられている」という東先生の言葉を私は思い出した。私の場合はあまりにも大きな過去の損失の為に35歳になる前に仮定法の亡霊にとり憑かれてしまった。


パン屋になるつもりが、蕎麦屋になってしまった人生は後になって後悔もするかもしれない。
けれど、その程度ならあきらめもつく。パンなら家で作ればいい。世の中の大抵のことは諦めがつく。
だが、どうにも諦められないこともある。私は長い時間をかけて家族を助けられたかもしれない可能性と
付き合っていくのだろう。