欝気味のおっさんと中央線の駆け引き

最近、欝気味のおっさんがなぜ中央線に飛び込むのかが分かったような気がする。多分欝気味のおっさん達はどうにも逃げ場がなくなってしまったのだろう。


責任にという言葉があるがそれはそれは果たせるべき資質があって初めて負えるものだ。もはやおっさん達は自分にその資質がないことを知っているわけだし、とは言っても他に逃げ道がない。


僕たちはかつてこれからのヤング達に勝てもしねぇのに戦闘機でアメ公の戦艦に突っ込ませて、「日本万歳、靖国でtogetherしようぜ」とわけの分からん合言葉を言わせて死なせたわけだ。


そのときのヤングだって死にたくはなかったはずだし、そんなことはしたくなかった。けれど、逃げれなかったわけだ、わけのわからない精神論で戦う我が日本の精神は依然として引き継がれ、自衛隊にヘリからバケツで原子炉に水かけて、アメリカに本気を見せようとした。


私は自殺が悪いとも、鉄の塊に飛行機で突っ込むことも悪いとは思わない。ただそれ自体は何の意味もないわけだし、それは皆知っているわけだ。


だからやるべきことは、絶対に不可能なことをやらせないことだ。しかしそれは私どもの国ではできないのだ。どうしても私たちには段階があって、ものごとを止めるたり、おこうなう為には「こんなに頑張って、こんな犠牲がでてしまっているので無理なんですよ」とまず1人を殺して生贄にして全員のコンセンサスを得るしか次に進む方法がない。


だから僕たちは死や犠牲を美化しなければいけない。崇高なる犠牲による議論の前進だ。次なる犠牲者を探さなければいけない。


私もあなたもいつかその犠牲者になるのかも知れない。そのときに私たちができるのはどこまでも逃げるか死を受け入れる為の転生や天国を信じるかだ。


震災で沢山の人たちが死んだが、世の中はなにも変わらずに動いている。人々が死ぬことよりも電力のほうが大切だし、私もそう思う。私たちのそれぞれの命など何の意味も無い。蟻や鶏と一緒で1人居なくなっても社会にはなんの影響もないのだからおっさんが中央線に飛び込んでも誰も気になどしない。


欝気味のおっさん達の価値の無い命の犠牲によって、何かしらの議論が前進していく日本のシステムにある種の合理性があると感じるのは日本人だけだろうなと思いました。